(えー、最初に断っておきますが、自分はイスラム教徒ではありませんし、学術的にコーランやイスラム教について勉強したことのあるヒトでも…(略)。)

 だいぶ前にケヴィン・スミス監督の『ドグマ』という映画を観た。「創造の神はユーモアのセンスをお持ちであった」という言葉で始まる、神と天使と人間の関係をネタにした痛快なコメディである。その中に熾天使メタトロン(天使の中でも最高位の天使)が主人公の前に現れ、こう不平をこぼすシーンがある。

 「人間ときたらメタトロンは知らなくても、チャールトン・ヘストンの映画に出ていたことなら詳しいんだからなー」


 (「ムハンマド」と聞いて「誰それ?」という方も多いかと思われます。イスラム教を開いたヒトの名前です。むかし学校では「マホメット」と習ったような気もしますが、マホメットは西欧表記の読み方で、本来のアラビア語っぽく「ムハンマド」と表記するのが最近では通例みたいです。)

 世にも珍しいムハンマドの伝記映画である。イエスの生涯を扱った映画は何本もあるが、ムハンマドの映画はこれ1本だけかと思われる。

 冒頭で、

 「映画の制作にあたってはムハンマドの影像を禁じるイスラム教の教義を尊重した。従ってムハンマドの姿は画面に登場しない」

という注意書きが表示される。当の主人公が一度もスクリーンに出てこない映画だ。ムハンマドが持っている杖の先が何回か画面に映る程度で、後姿さえ出てこない。会話シーンは一人称視点で展開し、ムハンマド以外のヒトがカメラ目線でこちらに話しかけてくる

 実はイエスを描いた映画でも昔はこのような手法がよく使われていた。キリスト教においては、神とイエスと精霊(ところで“精霊”ッてナニ?)を一体視する「三位一体」という教義が主流である。平たくいうと「イエス=神」なので「イエス様のお姿は畏れ多くて撮影出来ません!」ッてことなのだ。(最近の作品ではちゃんと役者をたてて堂々と画面に登場してるけどね……。)

 キリスト教のイエスとイスラム教のムハンマドは、それぞれの宗教の「開祖」という意味では同じような存在である。しかしながらイスラム教におけるムハンマドの禁影像戒律はキリスト教の場合と意味合いが異なるのが面白い。キリスト教では

 「イエスは神格化されているので画面に出してはイケナイ」

であったが、イスラム教では

 「ムハンマドを神格化してはイケナイので画面に出さない」

のである。逆さまなのだ。

 「ムハンマドの影像を禁ずる」とはムハンマドの絵を描いたり彫像を作ったりしちゃイカン! ということだ。日本人的感覚からすると、ご開祖さまのポスターを部屋に貼ったり、ケータイストラップをつけたりしたいと信徒は思いそうなものだが、イスラム教ではそういったミーハーな行為は堅く禁じられている。イヤ別にミーハーだからイケナイのではなくて、ムハンマドが生前に自分の口で、

 「俺の絵や彫像を絶ツ対に作っちゃ駄目だよ」

と言ったのである。

 言うまでもないが、イエスの絵画や彫像はしこたま作られている。「イエス・キリスト」と言われれば誰でも、例の、あの、おなじみのイメージがパッとアタマに浮かぶだろう。ムハンマドはそうはいかない。歴史上の人物としても相当メジャーなヒトなのに、実のところ誰も顔を知らないのだ。もしターバンを巻いてヒゲを生やした男が思い浮かんだとしたら、それは一般的なアラブ人のイメージであってムハンマドではナイ。ムハンマドの絵画や彫像はひとつも作られることはなかったし、同時代に生きていたヒトも皆とっくに死んでしまったので、現在、ムハンマドの容姿を知っているヒトは世界中に一人もいないのである。(――だからそもそもビジュアル化出来ないというハナシもある……。)

 さて、こういう事を言うとキリスト教徒のヒトからアタマを叩かれてしまいそうだが、イエス本人は「われこそは神の子である」とは一度も言わなかったそうだ。全人類、全生命、全被造物にとって、創造の神は「父」である――というニュアンスで「父なる神よ」と呼びかけたに過ぎず、イエスを「神の子」と定義したのは後のヒトたちである。

 そもそも“神”とは何なのか考えてみると、「この世の総てを創造した」というのが神である。「この世」というのは何も地球だけではなくて“全宇宙”であり、ということはビッグバンよりも前から(つまり140億年前から)神は居たことになる。日本の場合、ネットにお宝画像をアップロードしただけで「ネ申」扱いされてしまうが、あちらの一神教における“神”というのは、もう訳の解らないくらいのスケールを持った存在なのだ。(でまぁ、ぶっちゃけそういう神と2000年前にベツレヘムで生まれた男が“親子関係”ッてのはなんかヘンなハナシな訳だ。)

 因みに『ドグマ』では、神の声を聞いたために、我々の知っているアダムの前に5人のアダムが死んだ――というジョークが出てくるんだが、ヒトはその肉体や精神力では神の姿を見たり、神の声を聞いたりすることが出来ないんだそうだ。神の存在とは、

  1. ヒトには認識出来ません。
  2. でも認識出来ないからといって“存在しない”ということにはならないよね?

なーんて説明される。実はそういう存在を崇拝の対象とするのは凡人にとっては結構ムツカシイのではなかろうか? だって自分のデバイスではどう頑張っても知覚出来ないんだから。それを「信じろ」と言われてもねぇ。それよりも同じヒトの中に「神のよーなお方」を決めて、そのヒトを崇拝する方がずっとずっとカンタンだ。

 本来、まっすぐに神に祈っておればいい筈だったのに、いつのまにやらイエスが崇拝の対象になっちゃってなんか変だなァ~、という反省があった(かどうかは知らんけど…)ため、ムハンマドは自分がイエスのように神格化されることをえらく嫌った。要するに「俺じゃなくて神に祈れよ」と。ムハンマドは“神”ではないし、“神の子”でもない。“神の代理人”でもない。一介の“ヒト”である。

 イスラム教の聖典である『コーラン』は、その成立がムハンマドの口から出た言葉を記録した書物ではあるが、あれはムハンマドの口を使って神が話したことであり(正確にはヒトは神の声を聞けないので、間に天使が入る)、ムハンマドが自分で考えて発した言葉ではない。神を崇拝するのはOK。神の言葉であるコーランを有難がるのもOK。だけど神の言葉を伝えた媒介者である開祖:ムハンマドを“神のように崇める”のはNGなのだ。聖職者や教会の存在しないイスラム教において、ヒトの中に“神のよーなヒト”は存在しない。ヒトはヒトである。それはイスラム教を開いた男であっても例外ではない。

 ハナシを映画に戻すと、影像禁止の真意が「ムハンマドを神格化してはならない」という命題であるならば、結局「画面に映らなければいいんでしょ?」ということにはならない。ムハンマドの姿が登場しなくとも、「ムハンマドを主人公にした映画を作る」という行為自体が、ムハンマドの英雄化・神格化につながりかねないからだ。

 という訳でこの『ザ・メッセージ』という映画は、公開当時、敬虔なイスラム教徒の猛烈な反対運動にあい、中近東はもとより、ヨーロッパ、アメリカ、日本でも上映不能の状態に追い込まれたそうだ。傍から見ると、イスラム布教映画をイスラム教徒自らが潰しにかかるという奇妙な現象であった。1977年にして51億円の巨費を投じ、アラビア語版と英語版を吹き替えではなく別キャストで撮りおろすという力の入れようだったのに、ああぁぁ、製作に携わったヒトたち可哀そう……。


 メタトロンの言うとおり、ヒトが「映画で観ないとなにも理解しない」のは事実――。そんなこんなでイスラム教に関する映画が全然作られないので、教えとしてのイスラームが一般人に殆ど理解されぬまま、今日へと至るのであった……。

『فلم الرسالة THE MESSAGE』
監督:ムスタファ・アッカド
1977年 モロッコ/クゥエート/リビア/サウジアラビア

(しかし時は流れて21世紀――。現在この映画のDVDは普通にツタヤで借りることが出来るし、アラビア語版の方など小分けになってYouTubeに全編がアップされ、アラビア語でコメントがバシバシついているという始末である。時代は変わったのね。良いことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか?)

「MESSAGE」 3436px × 1926px 2009/8/6
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ザ・メッセージ 砂漠の旋風