誰もが知っている名作中の名作『ニュー・シネマ・パラダイス』であるが、『ニュー・シネマ・パラダイス』には「劇場公開版」(1989年/123分。以下『劇場版』)と「完全オリジナル版」(2002年/173分。以下『完全版』)という2つのバージョンがある。(ホントは本国で初公開された155分のバージョンもある。)
「トトが忘れられなかったもうひとつの物語。」
と銘打った約3時間の長尺『ニュー・シネマ・パラダイス』――。先日これを観て、自分はかなりヘコんだ。
え? 『ニュー・シネマ・パラダイス』ッてトトとアルフレードのハナシじゃなかったっけ? エレナ? 誰それ?!
『完全版』の方は、シチリアに30年振りに帰ってきたトトが初恋のヒト、エレナに再会するというくだりが付け加えられている――。
『ニュー・シネマ・パラダイス』は「映画を愛する全ての人へ捧ぐ映画」などと言われてもてはやされた。テレビやビデオ、ましてやインターネットなんて無かった時代、人々にとって唯一の娯楽は映画であった。映画館をとりまく様々な人生模様、映画への溢れんばかりの愛、やっぱ映画っていいもんだよね、という映画賛歌。
しかし『ニュー・シネマ・パラダイス』の素晴らしさは、「昔はヨカッタなぁ…」という懐旧の念だけで観客を釣る映画に終わらないところにある。『ニュー・シネマ・パラダイス』は人生の選択のハナシなのだ。すなわち、
1. 外の世界へと羽ばたき、なにか大きなことを成し遂げる
or
2. 住み慣れた世界に安住し、小さな幸せを積み重ねる
という二択である。
(因みに、ジュゼッペ・トルナトーレ監督が後に撮った『海の上のピアニスト』は、自分の世界から最後の最後まで出ることのなかったピアニストのハナシで、船と一緒に吹っ飛んじゃう彼の生き方もひとつの幸福論なのだ。この二択は結局のところ「どちらが正しい選択だったか」という答えが存在しないのがミソだ。人生は一度だけ。二つの人生は同時に存在し得ないのだから、両者を比較して「こっちのがベターだね」なんて判断することは不可能である。ベターな人生があるとすれば、「もう一方の人生のが良かったかも? と疑う人生」よりは、「自分の選んだ人生が正しかったのだ! と信じる人生」の方がベターだ、ということだけである。)
「これはお前のやるべき仕事ではない。今、映画館とお前はうまくいってる。だが長続きはしない。お前には他の仕事が待っている。別の仕事だ。大きな仕事だ。もっと大きな仕事だ。分かるのだ。視力は失ったが、前より見えるようになった」
で、トトは外の世界へと羽ばたく方のヒトな訳だが、基本的にはトトは自分の育ったシチリアの小さな村が嫌いではないので、当然のことながらここには葛藤があったと思われる。トトが村に留まっていたいと思う理由があるとすれば何だったのだろうか? それはアルフレードの存在なのだ。
勿論アルフレードはトトに「村を出ろ」と言った張本人であるが、トトの中には「子供の頃から大好きだったアルフレードと離れたくない」という思いがある。父親の居ないトトと、子供の居ないアルフレード――。二人は親子であり、親友であり、師弟であり、また命の恩人でもあり、ともかくも深い深い人間関係を構築しているのだ。
「アルフレードと離れたくないよ〜!」
――イヤ、そうだったのだ。『劇場版』では。
『完全版』ではここにエレナの存在が大きく首をもたげてきて、なんだかよく解らないことになってきている。トトが村を出るのを躊躇する理由が、どちらかというとエレナに比重があるように見えてしまうのだ。「エレナとこの村で結ばれ、家庭を持ち、島の映写技師として終わる人生、それで十分幸せじゃない?」というトトの甘〜い人生設計。そして「それじゃイカン!」と二人の間を引き裂く策士、アルフレード……、みたいな。
村を出るのがつらい理由――、それはアルフレードであって欲しいのだ。たかが初恋の相手が理由だなんていただけない。こう言うと多少言い過ぎのような気もするが、あえて言わせてもらうと、エレナってただの美人でしょ? 美人でお金持ちのお嬢様というキャラであり、パーソナリティとしては自分はまったく彼女に魅力を感じない。トトとエレナのエピソードで心を打たれるのは、あくまでもトトのひたむきな片想いなのであって、エレナ本人の人間性がどうのこうのっていうのじゃない。エレナはやっぱりただの美人で、ただの初恋のヒトなだけだ。エレナにはアルフレードのような人間的魅力はナイ!
まぁトトも普通の男の子な訳だから、いいのよ、美人にのぼせちゃって、他になにも見えなくなってしまう時期があっても。でもよく考えてみろよ。やっぱりトトが心の底から魅了されたのは映画であって、アルフレードなんじゃないの? そうであってくれよ。エレナよりもアルフレードのことが好きだったと言ってくれよ。
トトがアルフレードのことが大好きで離れたくなかったのと同様に、アルフレードもまたトトのことが大好きで離れたくなかったというのが本心である。要するにトトとアルフレードはラブラブなのだ。
「あんたの話ばかりしてた。最期まで。あんたが大好きだったのよ」
しかしアルフレードの愛はもっと深遠なので、「目の前にある小さな幸せを見つけてそこで安住するな」と言う。(エレナにはトトに対する愛がなかった――とは言わん。でもそれはやっぱり「トトも含めて自分がシアワセになる」という域を出るものではない気がする。エレナはトトに「私と家族を捨てて、自分のやりたいこと突き詰めていいのよ」とは言わないだろう。結局「シアワセな家庭を二人で作りましょ!」ッてなことで終わる気がするんだよね。) 今は解らないかも知れないが、それは才能のあるトトにとっては不幸なのだ。あるいはアルフレード自身が羽ばたかなかった(or 羽ばたけなかった)方のヒトなので、自分と同じ人生を歩ませたくなかったのかも知れない。
「行くんだ。ローマに戻れ。お前は若い。前途洋々だ。わしは年寄りだ。お前の声を聞くより、お前の噂を聞く方がいい」
アルフレードにとって息子同然であり、時には自分の目の代わりにもなってくれ、映画という共通のもので結ばれたトトを手放すのは、ある意味自己犠牲である。だがトトの人生のことまで考えると、未来のある若者が自分のような年寄りと一緒に居るのは決して良いことではないのだ。アルフレードのこの計らいはとても痛々しく、そして美しい。
さてさて、30年後。映画監督として成功したトトは、どこか虚ろで寂しげである。勿論本人がそうしろと言ったのではあるが、自分はアルフレードを捨ててまで夢をかなえてしまった……。そんな後ろめたさがあるからだ。(この辺の事情も自分的に『完全版』は「?」で、『完全版』では成功したトトが虚ろな理由はエレナとの恋を引きずっているからということになっている。) だからトトはこう尋ねる。
「(生前、アルフレードは)僕に会いたがっていた?」
アンナおばさん、答えて曰く、
「いいえ、一度も」
これがアルフレードの本心でないことはトトにも観客にもバレバレである。だってアルフレードが、大好きなトトに一度も会いたいと思わなかった筈がないじゃない! けれども、もしそれをトトが知れば、トトはアルフレードを捨てたことを悔やみ、苦しむことになるだろう。だからアルフレードは死ぬまでこのような強がりを言い続けた。さらには自分が死んだ事をトトには知らせるなとまで言っている。総てはトトへの思いやりのなせる業なのだ。
お前の選んだ人生は間違ってない。何も悔やむことはない。わしのことは気にするな。前へ進め。自分のやりたいことを突き詰めろ。――要するにアルフレードはこう言いたいのだ。その辺のことは、同じくトトに“捨てられた”お母さんが解りやすく代弁してくれている。
「お前のすることは正しいと思った。聞かなくても分かる。村を出てよかったわ。自分の望みを叶えた」
ホームでの別れ際、アルフレードはトトの耳元でこう囁いた。
「自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」
これは結局トトがアルフレードから聞いた最後の言葉になってしまった。そうなんだよ。自分の人生を愛さなくちゃ。愛したら疑ってはいけないのだ。もう一方の人生のが良かったかも……なんて疑っちゃいけないのだ。
そしてアルフレードは最後に、トトとアルフレードが愛したものは何だったのかを、もう一度見せてくれる。因みにこれは、子供時代にトトが「これもらってもいい?」と何度もせがんでいた例のブツであり、アルフレードは「これは全部お前にやる。だが私が保管する。お前はここに来るな」と言っている。アルフレードはこの時の約束をキッチリ守っていたのだった。(管理者のアルフレードが死亡したので本来の持ち主トトのもとへ渡された訳ね。)
ね、深いでしょ。アルフレードのトトへの愛情の深さを前に、エレナとのメロドラマはまったく要らない、と思いませんか。エレナはもう一方の人生、“まぼろし”なのです。“まぼろし”は“まぼろし”のままでいてください。ましてやストーカー行為したり、カーセックスまでしちゃったり、あー、もー! トトのバカヤロー。
初めから自分の言いたいことを言ってるだけですが、最後にもう一度、言いたいことを言わせていただきます。
だから! 『ニュー・シネマ・パラダイス』はトトとアルフレードのハナシなんだってば! エレナは出てこなくていーんだよ! エレナは!!
(でも面白いことに、自分がここまで嫌う『完全版』を、「こっちのがいい」というヒトも結構いるんですね。そういうヒト達の意見によると、自分のような絶対劇場版支持者は、要は綺麗で美しいもの好きな人生経験の足りない甘チャンだと、アルフレードの台詞を引用して言われてしまう訳です。「人生はお前が見た映画とはちがう」。イヤ、まァその通りでしょうよ…)