(えー、最初に断っておきますが、自分はキリスト教徒ではありませんし、学術的に聖書やキリスト教について勉強したことのあるヒトでもありません。どうぞお聞き流しくださいませ。)
総督ピラト――ローマ帝国がパレスチナに駐在させていた5代目の行政長官。イエス・キリストに死刑を宣告した張本人、である。
……と言っても、ピラトはちっとも悪いヒトではない。そもそもイエスを葬り去ろうとしていたのは、イエスの影響力に脅威を覚えたユダヤの宗教的指導者たちだし、イエスの死刑が不当だと解っていたピラトは、イエスの釈放を何度も何度も試みているのだ。
が、当時のピラトは政治的立場が非常に微妙であった。(この辺は『パッション』では語られていないことであるが、紀元31年にピラトの上司にあたるセイアヌスが皇帝への反逆を試みたとして失脚している。ピラトが「皇帝に上訴するぞ!」と脅されるのにはこのような背景がある。) 簡単に言うと、ピラトはツラい立場の中間管理職であり、ユダヤ議会はその辺をつき、自らの手は汚さずにイエスを抹殺しようと企てていたのである。
しかしそれ以上に致命的だったことがある。イエス本人が十字架を免れることを望んでいなかったのだ。劇中、ピラトとイエスはこんな問答をしている。
ピラト:「答えたまえ。私の権限で君は磔(はりつけ)も釈放も可能だ」
イエス:「神から与えられない限り、あなたにはなんの権限も無いはずだ。だからこそ、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」
ピラトは真理だとかなんだとか、そういう問題に対しては疎い。ホントのところは、イエスは「自ら命を捨て、そしてもう一度それを得る」ということを“神”から言われたのである。ピラトは確かにイエスを処刑したんだが、それはつまり、ピラトのお陰でイエスは救世主であると証明されたということだ。
しかしそういう自分の運命を知る由もなし、単純に無実の者を死刑にしてはいけないと苦悩するピラトたんは、人間的にはなんとも可愛いではないか――。
遂にユダヤ議会の要求する十字架刑にOKを出すことになった時、ピラトは群集に向かってこう言う。
「お前たちが磔を望んだ。この男の血に、自分は責任がない」
ピラトの物悲しい、情けない表情を見逃してはならないだろう。圧力に屈してしまった人間がここには居る。彼は「責任がない」と言わずにはおれなかったのだ。集団を前にし、一人の人間のなんと無力なことか――。
この映画は、イエスの味わった苦痛を最後まで見届けることこそが意義なのであり、イエスを磔刑にしてしまった男の悲壮感に注目するのは、かなりヘンテコな観方である。しかしながら、ゴルゴダの丘へ向かうイエスを見つめるピラトの眼差しは、なんとも言いがたい。
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(※1 歴史上のローマ総督ピラトは、数千人のユダヤ人を容赦なく処刑した暴君だったそうです。)
(※2 『パッション』は総督ピラトをイエスに対して同情的な人物として描いているため、「イエスを殺したのはユダヤ人」みたいな原理主義的印象を与えてしまい、反ユダヤ的である!――なんて騒がれてましたよね、公開当時。)
(※3 自分がピラトの肩をもつのは、その辺の事情はまるで関係がなくて、単に彼がアタマを丸めているからなのだ――とは今更釈明するまでもないでしょうか。ところでサタンがただのアタマ剃った兄ィちゃんにしか見えないんですが、悪魔ッてのはハゲなんですかねぇ?)